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【不動産投資】不動産に興味をもったルーツ

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今日、でふさんが公庫融資についてまとめている記事を読んだ時、自分が公庫の面談を受けたときのことをふと思い出した。

 

 

公庫「53さんはなぜ不動産賃貸業をはじめようと思ったのですか?」

53「儲かるからです」

 

・・・とは答えずに、現在努めている会社のビジネスモデルが不動産賃貸業と似ており、勉強すればするほどストックビジネスとしての魅力を掻き立てられたからです~・・・。

 

みたいなことを適当に喋った気がする。

 

いや、本当は儲かるからなんだけど、そうなんだけど。

 

それでも他にも儲かるビジネスはいくらでもあるわけで、俺がかくも不動産賃貸業に惹かれる理由はなんだろうかと心の原風景を探ってみたいと思う。

不動産に興味を持っている人はこういった隠れた心象風景みたいなものをきっと持っているはずなのだ。

それを思い出すことはこの先、融資面談や大切なビジネスパートナーと一緒にやっていくときに、きっと何かの役に勃つと思う。俺がやることに賛同を得やすいんじゃないかと思っている。語るにしても語らないにしても、そういった記憶は熱を帯びているはずなのだ。

不動産は買えないのが当たり前で、それでもコツコツと探し続けることでようやく買えるものだと俺は思っている。

そんな不動産投資において、メンタルを長く維持する上で、自分の情熱がどこから来ているかを確認するのって大事だと思いませんか。

 

寒い家

俺の家は食べるのに困ることはなかったけど、それほど裕福とは言えず、どちらかと言えば貧しい部類で、文化レベルは著しく低かった。

父親は一部上場企業で母親と知り合い、結婚し、俺が1歳の頃に会社をやめた。

理由は「辛い」とのこと。

そしてある資格試験の勉強をし、その後無事に試験に合格してその道を進むことになるんだけど、一家の大黒柱がのんきに勉強をしているせいで、とても裕福とは言えない状況だった。母親が働くことでしばらくの間、生計を勃てていたのだ。

 

別の記事でも書いたのだけど、ある日母親が出かけようとすると、俺は保育園に行くのがいやで、玄関で泣いてしまった。母親は俺を不憫におもい、その日は会社を休んでくれた。いまと違って女性の社会進出にそれほど理解がない時代のことで、俺はめちゃくちゃ嬉しかったのを覚えている。

 

しかし、容赦なく次の日はやってくる。

 

俺は保育園に行きたくないとまた泣いた。今日も休んでほしいと母親に頼んだのだ。俺は当時4歳で、北向きの暗い玄関の映像をいまでも覚えている。

日光の当たらない薄暗がりの中で母親は少し涙ぐんだ表情でキリッと口を一文字に結んで、「ごめん。今日は休めへん」と告げると俺の手をとって保育園へ連れて行った。

俺はものすごく哀しい気持ちになったのをこうやって記憶している。寂しかったのではなく、「母親が俺の頼みを聞けないことで哀しんでいる気持ちが俺に伝わってきた」のだ。それが哀しかった。

 

小学生になったある時、俺はスイミングの帰りに駅から自宅へと急いだ。その日は猛吹雪で、俺は傘なんてもっていなくて、白い雪の粒をいくつも身体に載せながら、半分凍った道路をこけないように小走りに進んだ。早く走った方が雪を受けずに済むような気がしていた。

途中、スーパーで働いている見知らぬおばさんが雪まみれになっている俺を見かねて透明のゴミ袋を渡してくれた。俺はゴミ袋を頭からかぶって、雪を防ぐことができた。数ミリの袋では本当は雪は防ぐことは出来ても寒さはどうにもならないはずなのに、ゴミ袋の中はなぜか暖かい空気に満ちていた。

自宅に帰ると母親は留守だった。いつもの植木鉢をどかしてみると合鍵が置いてあったので、玄関のドアをあける。

しんと静まり返った家の中は薄暗くて、気密性の悪い安物の家は京都の底冷えする寒さを到底防ぐことはできなかった。

親がいないときに勝手にストーブを点けることは禁じられていた。エアコンもなく、そのときはなぜかこたつもなかった。

俺はバスタオルで身体を拭いたあと、点いていないストーブの前に座って膝を抱えて母親の帰りをまった。暗い部屋で何故か電気もつけずに待っていた。点いていなくてもストーブの前の方が家の中のどの場所よりも暖かい気がしたのだ。

 

母親は帰ってくると、暗がりで膝を抱えて震えている息子を見つけて大急ぎで風呂に入れた。なぜかごめんごめんと謝っていた。あのときはなぜ謝っていたのか、今でもわからない。

 

裕福であったなら、もっと暖かい家に住むことができただろう。

 

キン肉マンショー

親父はきっと毎日の労働で疲れていたのだろう。

 

その日、車で20分ほどのショッピングモールでキン肉マンショーがあるという情報が子どもたちの間で飛び交った。

時間は少し戻って小学校1年生くらいの頃だったろうか。

俺は行きたいと親にせがんだが、親父は肘を枕にした態勢でテレビを見たままピクリとも動かなかった。

近所の子供たちはみな自家用車で連れて行ってもらうという。

キン肉マンは俺の子供の頃の世代では圧倒的な人気で、そのキン肉マンを目の前で見れるというのだ。こんなチャンスはめったに無い。

俺がしつこく頼むと、母親も加勢してくれて、一緒に父親を説得してくれたが、父親は涅槃に入ったかのようにまったく姿勢を変えず、俺の頼みを聞いてくれることはなかった。時々動きの止まる軽自動車を運転できるのは父親だけだと言うのに。

 

その態度にブチ切れた母親が、俺に安物のジャンパーを着せると手を引いてバス停へと向かった。

バス停までは10分程度の距離なんだけど、その日はやけに気温が低くて、途中で通る田んぼの脇の道の上を、遮るものがない強くて寒い風が貧しい親子へと吹き付けた。

俺の手を引く母親の足取りがいつもよりも早くて、俺は小走りについていかないと手が千切れそうだった。

俺は自分の我儘で父親と母親が喧嘩になったことや、こんなに寒い日に自家用車ではなく、バスでキン肉マンショーを見に行く惨めさと罪悪感が入り混じったような暗い気持ちになっていた。

 

バスの中は暖かく、俺たち親子を優しく迎えてくれたように思えた。俺が母親に連れて行ってくれる礼を言うと、さっきまで怒っていた気配は消えて、俺ににっこりと微笑んでくれた。

 

ようやくバスがショッピングモールにつくと、そこは同世代の子供とその親たちでいっぱいだった。みんなキン肉マンショーが楽しみで仕方ないのだ。

しかしキン肉マンショーが始まると俺はがっくりと肩を落とすことになる。

キン肉マンが来ていないのだ。

いや、来ていると言えば来ているのだけど、マスクの出来がひどすぎる。

まるで昨日までキン肉マンショーを主催することを忘れた人が慌てて一晩で作ったようなひどい出来で、額に「肉」と書いてある全然違う人のショーだった。

ショーはそんな出来だったから全くおもしろくなくて、俺はこんなにくだらないものを見るために母親に無理をさせたのかと思うと、また哀しい気持ちになった。

 

ショーが終わるとグッズの販売だ。俺の家の近所には不動産屋の社長が2軒も住んでいて、それぞれの家族がベンツでショーを見に来ていた。

そして彼らが手に持っているのは、なんとキン肉マン消しゴム通称キン消しが30体も入った垂涎のおもちゃだった。俺はあれが欲しいと思わず母親にせがんだが、それは無理なことはわかっていた。

母親は哀しそうにあれは買えないけど、ガチャガチャを1回やらせてあげると言ってくれた。俺は100円玉をもらうとガチャガチャを回した。

出てきたのはわけのわからない聞いたこともない超人だった。キン肉マンやロビンマスク、ウォーズマンやバッファローマンがほしかった。

 

「僕のほしかったやつや!!」

 

俺は母親に気を使って高い声でそんな嘘をついたのだった。

 

・・・あの時、家が裕福だったなら、俺はベンツでキン肉マンショーを見に行って、たとえショーがくだらない内容だったとしても罪悪感なんて感じないで、「おもんねー!」と吐き捨てて、30体入りのキン消しセットを買ってもらってホクホクした顔で帰宅したと思う。それを実現したのは貧乏なお家の子の俺ではなく、不動産屋の息子たちだった。

 

不動産屋さんて、よくわからないけど儲かるんだな。

子供ごころにこの時の気持ちは強烈に自分の中に残っている。

世の中は平等なんかではなく、勝ち組と負け組が存在し、貧富の差があることを実感した瞬間だった。

7歳でそれを認識できたことは今となっては幸運だったかも知れない。もちろん貧富の差なんて難しい言葉は当時の俺は知らなかったけれど。

 

プール付きの豪邸

子供の頃、不動産のチラシを見るのが好きだった。

小綺麗な家の写真が載っていて、3000万円!などと価格が表示されており、素敵な家族と白い犬が写っている。

家って高いんだなとチラシを見ながら思っていた。

いつか自分もこんな家に住みたいと、ショーウィンドウを飾るきれいな服を見るような気持ちで、不動産のチラシが新聞に折り込まれると飽きずにそれを眺めた。

他にも家電製品のチラシとかおもちゃのチラシを見るのが好きだった。

自分のお小遣いで買えないものばかりなんだけど、見ていると自分がそれを持っているような気持ちになった。実際は全く持っていないんだけど笑

 

そんな時、あれはたしか「なるほどザワールド」という番組だったと思う。世界の文化を伝える番組で53家は毎週日曜日(土曜だったかも)にそれを観るのが習慣となっていた。

今でこそテレビはオワコンと言われるけれど、金のない家でもテレビさえあれば無料で番組を観ることができるのだから、当時はありがたい娯楽だったのである。

 

その時のなるほどザワールド(たぶん)は俺に衝撃を与えた。

 

オーストラリアでは広い1戸建ての、プール付きの豪邸がなんと600万円で買えるという内容だった。

毎週不動産のチラシを眺めていた俺にとってはそれは破格だった。

赤い屋根で白い壁の家に、青く水がはられたプールに外国人の子供が飛び込んで遊んでいた。

太ったオーストラリア人の夫婦がプールではしゃぐ子供をにこにこと眺めている。

俺は画面に釘付けになっていた。

将来自分もプール付きの家にすみたい。夏は毎日ここで泳いで冬はペンギンを買うのだ。

※なぜかペンギンが好きだった

 

このときの映像を俺はいまでもはっきり覚えている。そしてこの時から俺はめちゃくちゃお金が大好きな少年になっていくのである笑

小学校の卒業式に壇上で将来への豊富をひとこと述べる時間が全員に与えられたのだが、みんなはサッカー選手とか野球選手とか言っていたのに、俺は・・

 

 

 

「早く大きくなって働いて、お金を稼ぎたいです」

 

 

 

と、口上をのべた。

 

 

 

あれ、参加した父兄はどう思っただろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

どんだけ貧しいねんwwww

 

 

 

 

きっとそう思ったに違いない。

小さい頃貧しかったこと、近所の不動産屋さんの息子が裕福で圧倒的格差を感じたこと、そして世の中にはプール付きの豪邸に住んでいる人がいると知ったこと。

 

 

他にも金持ち父さんとかロバート・アレンを読んだとか、他の人と同じような体験はしてるけれど俺の場合は小さいころの体験が今の不動産への情熱の原動力なっていると思っている。

 

 

 

きっとこの記事を読んでいるお前らにもくっそくだらねーエピソードがひとつやふたつはあるはずだ。書いてないけど、俺にはもっとある。人からするとくだらない思い出でも、他の誰にもわからない自分だけのパワーの源になっているかもしれない。

それって忘れているだけで、己の中に眠っているかもしれないと思うとちょっとワクワクしない?

 

だらだらと記憶をたどって書いてしまったけど、このくだらない記事を最後まで読んでくれたお前らさまの記憶の扉を刺激する記事になっていたら幸いです。

 

今日はこのへんで。

 

 

もうええわ。

 

 

 

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